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便利さとともになくしたもの [2005年09月27日(Tue)]

便利さとともになくしたもの [2005年09月27日(Tue)]

去年、ビデオ教材の撮影でラオスに行ったとき、気を遣った事がある。それは、仕事の時間である。ラオスでは、日本より、生活にかかる手間がかかるので、生活の時間を大切にする配慮をしないといけないのだ。
それは、とにかく、日本より、生活にかかる労力が大きいからだ。
だからこそ、撮影の都合で、拘束時間が長くなり、仕事の時間が遅くなりそうな時は、相手の事情を聞き、その事情に合わせて、仕事の組み立てをしないといけない。
確かに、仕事の区切りがつかったり、やむない事情で、約束の時間より長く拘束してしまった時、少しでも、余分に払うと、貴重な現金収入なので喜んでくれるが、それはあくまでも、非常事態と捉えないといけない。相手が喜んでいるのを見て、そのまま、続けると、自分の信用を失い、そのうち協力して働いてくれなくなる。
優秀な自動制御つきの家電製品、便利な交通機関、24時間あいている、お店や、飲食店、早くてどこでも繋がる通信網など、日本の社会は利便性を追求してきた。
これは、本来、生活を楽にしようという目的で発展したものだが、どうも、その目的とは違う方向に進んでいるようだ。
それは、生活を豊かにするのではなく、生活を軽んじる傾向に繋がっているように思う。
便利だからこそ、便利なサービスを利用することで、問題が解決できるし、その選択肢が増えた。その事によって、その人が本当に大切なことの優先順位づけに混乱が起こってきているように思う。
たとえば、会社で家族の誰かが怪我をした事を知ったとしよう。でも、同時に重要な仕事があったとします。
このときのアクションとしては、
・仕事をおいて、家に帰る。
・家に帰るけど、家で携帯や通信機器をつかって仕事をする。
・家族か親戚の誰かに、任せて仕事をする。
・これはあまりありえないが、家族以外の専門サービスに任せて、仕事をする。
・ほったらかす。
などが考える。
この選択肢の中には、利便性が増すことで、増えた選択肢がいくつかある。
その、増えた選択肢は、怪我をして不安になっている家族を、安心させる事のできるものは少数派だ。
ラオスなど、生活にかかる手間がかかる地域では、その選択肢が少ないがゆえに、いま、自分がどうするべきかについての優先順位が明確なように思う。
その一方で、便利な社会で選択肢が多いと、他の人と違う判断をした時、説得するのが大変だ。
人、それぞれ、考え方が違う。感じ方が違う。それは当たり前だが。自分の思うようにいかないと、腹が立つ、いらいらするのも、人情だ。
家族が、怪我をした時「私ならこうする」と、一言言う人もいるだろう。新しいモノ好きな人は、相手の事情を考えずに、ついつい興味本位で「こんなサービスがあるよ」とか、勧めてしまう。 選択肢が多いから、それぞれ言うことが出来るし、人によっては、相手の立場を考えずに、こうすれば、もっと効率的だったのに、なぜそうしなかったのかと、責め立てる。
そして、そのときに「このサービスを利用すれば良かったのに」と言われる。確かにそれは、それで、正論かもしれない。
だが、それを、自らが行ったとして、自分の本当の目的を達成できたのかはわからない。
その、相手が出してきた、正論より、正当性を立証しない限り、相手が、自分のとった行動を認めない事がありうる。これが、会社など、仕事を評価し、報酬なり、地位なりを決定する人間に対して行わないといけない。みのみとは、こじれた場合、働いている人にとって、相当な労力が必要だし、下手に逆らうと、より不利な状態になる場合があるので、相手の意見を受け入れるという形で、自分の正当性を曲げてしまうことも多いと思う。
情報化や機械化などで得た便利さとともに、自らの行動の正当性を立証するのが難しくなったと言える。
そのことにより、周りに合わせることに終始し、自分の生活を軽んじる事となり、さらには、自分の人格や、他人の人格なりをも軽んじる事に繋がっているのではないかと思う。
ちょっと、違う例を出してみよう。
洗濯がきらいな、主婦がいたとしよう。
洗濯がきらいだと、洗濯機に洗濯物を入れ、それを出す事も嫌いという事もありえる。
しかし、夫は、洗濯機に入れれば済むじゃないと一蹴してしまう事ができる。
本当は、その夫が、結婚前に、会社の借り上げマンションで、一人暮らしをしていた時のように、洗濯機に洗濯物を入れて、ボタンを押せば解決するのに、自らは行わない。
夫は遅くまで仕事をしているのだから、主婦である妻が、洗濯をしてもらいたいと思っている。 だから、夫は、ついつい「せっかく、乾燥機つきの全自動洗濯機を買ったのだから、洗濯機に入れてスイッチ一つで済むじゃない」なんて言ってしまう。
これを言われてしまえば、時間もある主婦の妻も言い訳できない。主婦である妻は、人格を否定された気がしてしまう。
洗濯機がなければ、洗濯は重労働だから、洗濯が嫌いだという事が正当化されたのだが、乾燥機つき全自動洗濯機が導入されたところでは、その洗濯が嫌いだという、ある種の個性は、否定されてしまう。
確かに、便利になった。
しかし、それによって、人格を否定する事が増えているように感じる。今の日本では、その傾向が顕著で、その感覚を、他の国の人に押しつけてはいけない。もちろん、日本人にもだけどね。
また、不便だからそ、仕事の価値を認めることができるというのも不思議な事だ。

[CANPAN blog STILL ALIVE より]

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