職業選択の自由 [2006年03月04日(Sat)]

昨日紹介した「六ヶ所村ラプソディ」という、長編ドキュメンタリー映画を見に行った。

この作品は、青森県の六ヶ所村という、核燃料サイクル基地のある小さな村が舞台となっている。
核燃料サイクル基地というのは、原子力発電所の燃えかすである産業廃棄物である使用済み核燃料を、再処理する工場で。プルトニウムという無茶苦茶パワーのあるものにする工場だ。このパワーは大きすぎて、角砂糖1つ分で2000万人が死ねるぐらいのパワーがある。パワーがあるからこそ、それぞれ、電気に使おうだとか、爆弾を作ろうだとか、いろんな人が興味を持っているし、お金をかけて開発してやろうと思っているようだ。そんなことで、多額のお金がうごいていて、それで、村民も食えてしまう。
また、核燃料サイクル基地の特性として。原子力発電所では、発電の過程では、放射性物質が外に出ないように工夫されているのだが。どうも、核燃料サイクル基地では、少し、放射性物質が、空や海に出てしまうらしいんです。
そうなると、住んでいる人は、被爆してしまうんです。
この映画は、本格的な試験運転が始まる前の約2年間を取材して作った作品で。今は少数派になっているけど反対する人、昔は反対したけど今はあまり活動をしていない人、核燃料サイクル基地で既に働いている人など。いろんな立場の人が描かれていました。

さて、私が気になったのは、この六ヶ所村の問題って、核の問題もあるけど、職業選択の自由の問題でもあるんですよね。
漁師は漁業権を放棄したり、核燃料サイクル基地で働く人や、その関連産業で食べる人が村の大多数となっていたり、村の財源のほとんどが核燃料サイクル基地関連の収入という現状では、事実上、役所も含めて、この村のほとんどの人が、核燃料サイクル基地で生きているということになる。
逆の言い方をすると、核燃料サイクル基地以外では生きられない状態になっている。六ヶ所村は、事実上、職業選択の自由のない状態になっていると言える。
それに対して、核燃料サイクル基地の反対をしている人は、無農薬の作物を作ったりして、それを都会に売っていたりするのだけど。それって、核燃料サイクル基地以外の仕事を作ろうとしているんですよね。
もう、単純に反対を訴えても、既に、多くの人の雇用が発生している状態では、説得力がないからこそ、仕事を選択出来る余地を作る必要を感じたのでしょう。
現状では、核燃料サイクル基地がなくなってしまうと、たちどころに、村の経済がダメになってしまう状況で、環境が汚染されるからといって、反対することもできなくなる。

実は、これって、六ヶ所村特有の問題でもないような気がするんですよね。
たとえば都心では、魚が捕れないし、農作も、酪農も出来ないし、工場も作れないし、普通の住宅ではインターネット通販はできても、物理的にリアルな店舗は持てない。たくさん職業があるように見えて、実は、選択肢が少なく、たいして職業選択の自由がないのではないかと感じてしまう。
そして、一見、違う職業でも、ある基幹産業の関連で食っているのが大多数だとしたら、事実上の職業選択の自由がないと言ってもいいのかもしれない。
もしかすると「失業」や「ニート」が増えている原因の一つは、選択肢が少なく、職業選択の自由が事実上ないからかもしれない。

監督の鎌仲ひとみさんは、イラクで劣化ウラン弾の被爆者を描いた作品を作った後に、この作品を作ったわけだが。
放射能の問題を追っているうちに、作品をつくる過程で、ごく日常にある職業選択の不自由さという問題にぶち当たったようだ。

普段あまり意識をしている人は多くないと思いますが。
昔は自然環境などが職業の選択肢を減らす原因だったのですが、今は、役所や、いわゆる大手と言われるものがはびこることで、職業や生き方の自由が一見増えたように見えながらも、実際は奪われているようである。そういう現状が、極端な形で現れているのが、六ヶ所村なんだと感じました。

イラクがどうの、環境がどうのという事に興味が薄い人も。まずは、見てみて。
仕事とは、産業とは、人の営みとは何かを考えてみてはいかかでしょう。

真の職業選択の自由というものはなにかを見つめ直してみてはいかがでしょう。

[CANPAN blog STILL ALIVE より]