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炭住街に行く [2007年06月19日(Tue)]

炭住街に行く [2007年06月19日(Tue)]

夕張の最終日。手織り工房レラの石田さんに市内を案内してもらった。
そこには、町中にある観光施設などからは見えない夕張の姿があった。

まず、町の方は団地につれていってくれた。
実はこの団地、昨日、宿に戻るときに、遠くになんとなく気にる団地があったのだか。その団地である。わたしは、何かを感じて、道を引き返し、車を止め、高台からその団地に向けてビデオを回した。
そんな団地に連れて行ってくれるというのだ。

清陵町と呼ばれる団地の中に入る。この団地の建物には建物の名前と建物を建てた組織名の他に建てた年号が記されている。
1975年、1976年と書かれている。
石炭の産業が終焉を終えるのが1980年台頭と考えると意外に新しい。
夕張がロケ地として有名な映画「幸せの黄色いハンカチ」が撮影された頃は全くの新築だったということになる。
実はこの団地、北炭夕張新鉱と呼ばれる炭鉱で働く人のために作られた、炭坑の入り口の間近にある団地なのだ。

今日は天気がいいこともあり、初夏の太陽を浴びに出ていたのか、人通りがけっこうあったのだが。建物の窓を見ると、住んでいると思われる部屋は本当に少ない。
今ではお年寄りを中心に本当にわずかだが入居者がいる状態だ。
聞くところによると、届け出がなされている入居者数より、入居の実態が少ないのではという疑いがあるそうだ。それは、お年寄りが多く、届け出上は入居はしているものの札幌などの子どもの住んでいる所で暮らしている場合が多かったり、入院・退院を繰り返していたりしている方が多く、実態とはかけ離れているのではないかと考えられている。
かつては山間の町にもかかわらず十万人以上も住んでいた夕張市民は現在1万3千人弱ということになっているが。あくまでも書面上であり、実際は1万人ぐらいしか住んでいない可能性もある。
そしてその建物があるが実際には人が住んでいない状況が一番ひどいと思われる所がこの団地なのだそうだ。
この団地は、建物に「改良」と書かれているにもかかわらず、各戸にお風呂が無く、団地の中央にある銭湯に行かないとお風呂に入れない。団地は5階建て未満でエレベーターは設置されていない。しかも団地の端から銭湯まで、普通の大人でも5分以上かかる。冬場、足の悪い時期にお年寄りが銭湯に行こうとすると10分、20分とかかってしまう。せっかく暖まった身体もこれでは冷えてしまう。
そんなことで、冬場に出歩かなくなり、いつしか孤独死が発生しているのではないのかという疑いや、空き家が多くなることで不審者が居着く可能性もあることなどもあり、お巡りさんも一軒一軒訪ねて廻っているのだそうな。
団地の中央部に戻ってくる。団地内の道路が集まるところから、坂を登ったところに柵のついたトンネルがあった。その前には美しい花がいっぱい咲いていた。
あまりにも美しいので、ふらふらと炭坑の入り口に近づきシャッターを切る。
同行した石田さんは「私はこれ以上近づくことが出来ない」と言った。
ここは、北炭夕張新炭鉱と呼ばれる炭坑の入り口の跡なのだ。

この花はここに眠る魂のために咲いているのであろうか

しかし、これ以上近づけなかった。

ここ北炭夕張新炭鉱は、機械掘削、換気システム等で 世界最先端の「ハイテク炭坑」として開坑したにもかかわらず、「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」と呼ばれる93人が亡くなる大惨事が発生した。
(ハイテク炭坑と言われながらも、設備が充実したことにより、より危険なタイプの石炭を採掘しようとしたり、生産性向上のために安全面を軽視したことにより日本の「ハイテク炭坑」と呼ばれる炭鉱では、三井三池炭鉱有明抗坑内火災(1984年、死者83人)、三菱南大夕張炭鉱ガス爆発(1985年、死者62人)という痛ましい事故が起きている。)

この大惨事は、遠く離れた所に住んでいた私も知っていた。
しかし、記憶の片隅に置かれていたため、思いがけず案内された時点では事の重大さには気づかなかった。だが、身体は何かを感じていたようだ。

「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」は、私が中学生だった頃にこの事故というか事件が起きた。確か朝のNHKニュースで見ていた記憶がある。

1981年10月16日夕張新炭鉱内にガスが出て、その後火災事故になった。

ちょうど私が夕張新炭鉱を訪れた日に、東京・渋谷の温泉施設でガス爆発事故が起きたのだが。温泉の掘削も含め、地下には様々なガスが出てくる危険が満ちている。

先ほど、事故というか事件が起きたと書いたのは、あまりにもショッキングな出来事が起きすぎたからである。
最初のガスの突出事故のあと、救護班も巻き添えにした二次災害のガス爆発による坑内火災が発生。この火災が止まらないため、坑内には59名の安否不明者が取り残されているにも関わらず、鎮火を目的に、空気を送らないように炭鉱を密閉し、さらに注水をしたのだ。
何日も注水の是非を巡る議論が白熱し全国のテレビニュースでもそのことが流されていました。
そんな中、生存者の有無を確認する為に捜索隊が坑内に入るが、爆発の衝撃で坑道の至る所で落盤が発生しており、救出活動を続行する事は危険と判断された。
(この捜索中、立ったまま死亡していた労働者の遺体も発見されたという。)
そして、ガス突出から1週間経った10月23日サイレンと共に59名の安否不明者がいる坑内に夕張川の水が注水された。
注水の賛否も含めあまりにもセンセーショナルなこの事故というか事件がきっかけで、オイルショックから石炭が見直されつつあったにもかかわらず、炭鉱労働者への補償や設備投資が増えるとのことから石炭の採掘が割に合わないビジネスだと言うこととなり、日本の石炭産業が急速に終焉に向かった。

痛ましい事件から1年後。夕張新炭鉱は開山から10年も満たないうちに閉山し、現場のすぐ近くに炭住街が残され25年が経過した。

大惨事から25年以上の時間が過ぎたことと、観光化や、夕張メロン、映画祭など、さまざまな炭鉱依存からの脱却への取組により。当時、あれだけ大きく騒がれたにもかかわらず、この記憶の片隅に追いやられていた。
そのわずかな記憶とは関係無しに、私は無意識に右手にある慰霊碑に足が向かい自然と手を合わせていた。

炭坑の入り口付近に、いまもスローガンの書かれた看板がそのまま残されている。

 

我が新鉱をがっちり守ろう
出稼と保安と生産で

このスローガンのとおりに達成されたものはなに一つない。

[CANPAN blog STILL ALIVE より]

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