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慰霊祭に対する違和感 [2008年01月17日(Thu)]

慰霊祭に対する違和感 [2008年01月17日(Thu)]

ここ10年あまり、神戸近辺の人は1月はなにかと忙しい。
1995年の1月17日に発生した阪神大震災がらみでいろんなイベントが開かれるからです。
震災の記憶を語り継ぎたいということは大切だとは思うのですが、慰霊祭というものには、少し違和感があるんですよね。
それは、このブログのタイトルにも関連するのですが、大規模災害が起きた場合、多くの人は亡くなるわけではなく、生き残って被災者となって生きていくわけです。
それが、慰霊祭となってしまうと、亡くなった方が主役になってしまうんです。そして、それが報じられることによって強調されてしまう。確かに亡くなった方は志半ばだったと思うのですが、生き残った人も、人生の機転になり。場合によっては、災害の後の様々な状況によって、志半ばで、あきらめなければならなかった人も多くいるはずです。
それと、慰霊祭をツールに、人の持つ死という恐怖を活用し災害をリマインドし政策の推進というビジネスするための行事という発想も困りものです。亡くなった方に失礼です。
極端な話、死亡者が出なかった大きな災害があった場合、当然ながら慰霊祭が開かれるわけではありません。
たとえば、2001年9月に襲った台風16号ですが。全体では5名の方が亡くなったのですが。風速が70メートル、いや80メートルが吹いて、全世帯の約3割が家屋倒壊あるいは浸水の被害を受け、道路の崩壊、電柱の崩壊、学校の体育館の屋根が吹き飛んで全壊という、多大な被害を受けた、沖縄県渡名喜島は、不幸中の幸いで死者が出なかったわけで、当然、慰霊祭は行われない。
そのため、甚大な災害があったにもかかわらず、忘却の彼方に追いやられやすい。
ちなみに、私も忘れていました。ごめんなさい。
でも、最近、沖縄系のミュージシャンの人に教えてもらって、再認識しました。
渡名喜島の台風来襲と同じ日に起こった、ニューヨークの同時多発テロの方がたくさんの方が亡くなって、人々の注目を浴び、渡名喜島の災害支援チャリティライブは苦戦したのだそうだ。
人々は、災害の規模を、死者の数で認識し、無意識に格付けをしていて。その格付けされた結果のみが、記憶や記録として残されやすい。しかも、メディアによって、この傾向は強調されやすい。
いま、神戸で津波3周年の展示を行っているが、そこに来たある方が言ってましたが。市が行っている慰霊祭にはいつしか行かなくなったが。地元で、ともにテント暮らしをした人たちと行っている慰霊祭だけ参加しているとのこと。
この気持ち、よくわかるんですよね。市などが行う慰霊祭って、広報効果を狙うために、媒体で取り上げてもらいやすいように、死者を利用している側面が多いような気がしてならない。その結果、どのような事が導き出されるかというと、防災対策や耐震構造とか、来るかどうかわからない災害への備えのために、多額の税金を使うことや、個人や企業の負担を求める内容となることが多い。
別に防災のために金を使うなとは言いませんが、現に被災した人の存在を軽視した形で、防災へお金を使うことを促進することに利用されるような慰霊祭は、亡くなられた方に失礼なのではないかという気がする。
というか、多くの人が亡くなった事を利用して、宣伝に使い、マーケットを広げて商売するのは、公共的な意味もあるからある程度必要だと思う。
それより、慰霊祭は、生き残った人が主体となった、生きていくための、祭であってほしい。
そして、災害にあった経験を、多くの人に伝え、もし、災害にあって、生き残ったとき、生きる知恵を伝承できるようなものであってほしい。
残念ながら、多くの災害の慰霊祭は、そうなっていないような気がするんです。
災害のあった日に行われるイベントで展示される、防災関係の情報は、ほとんどが、災害後、3日以内に必要なものが中心です。もちろんそれも大切です。
それより、重要なのは、命を落とさずに済んだ人が、災害を背負いながら、どう生きていくかです。
死者を弔うことをメインに置くと、どうしても、いま生きている人の事がおろそかになる。
防災意識は、命を落としたくないということもあるのですが、ヒト、モノ、カネ、健康を失いたくないという、欲望というか、ある種の恐怖感から発生していると思われます。だから、怖くて、災害によって、ヒト、モノ、カネ、健康を失った状態というものを想定したくないというか、触れてほしくない。ヒト、モノ、カネ、健康を失った人に対し、可哀そうにとは思うかもしれないが、それだけで済ませたいんです。それ以上考えたくもないし、想像しだすと怖すぎて、聞きたくないんです。
残念ながら、日本の多くの人がそうだと思います。
そういう人たちの満足感を得るために、ニュースのネタとして取り上げられるような、話題作りのための慰霊祭の企画内容が含まれていしまいがちなのも、違和感の原因の一つだったりします。
年金も行政も破たんするだろうと言われている時代の日本人に本当に必要なのは、ヒト、モノ、カネ、健康を失っても生きていけるしくみづくりです。残念ながら、ヒト、モノ、カネ、健康の中には、一度失うと戻ってこないものがあります。当然、取り戻すシステムも必要ですが、不可能なこともあるわけですから、戻ってこなくてもいきいきと生きていけるようになるためのしくみが必要なんです。
私がツナミクラフトを扱っている理由のひとつは回復のためのプロセスがそこにあり、伝えることができるからであり、夕張の支援を必要とする仲間たちに何かを感じているのも、一生つきあっていかざるものを持って生きていくための何かがあると感じていている。
そういう考えに立つと、慰霊祭という死者を主体にし、死という人間の持つ恐怖の一つをリマインドさせるイベントが盛大に行われるのは、未知でかつ分かりやすい、死への恐怖を強調するだけで、何かを背負って生きていくための知恵の伝承にならないような気がしてなりません。
この記事を書く前日、医療事故でお子さんを亡くした(殺された)方とお会いし、事故を起こした医療機関が毎年命日をその医療機関の「医療安全の日」としてとりくんでいて。その研修会の場にてご遺族が発表された時の映像を見ました。
そこには、亡くした命を活かしていきたいというものを感じました。それが、本当の慰霊だと思う。
それからすると、そういう亡くした命を活かしていくような空気を感じる阪神大震災がらみの慰霊祭や関連行事が少ない気がしてならない。

[CANPAN blog STILL ALIVE より]

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