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FIFA W杯南アフリカ大会出場決定に想う [2009年06月07日(Sun)]

FIFA W杯南アフリカ大会出場決定に想う [2009年06月07日(Sun)]

昨夜は夜更かしをして、中央アジアのウズベキスタンで行われているサッカーの試合の中継を見ていました。

しょっぱい試合ながらもウズベキスタン戦に勝ち、ワールドカップ出場の切符をつかんだ。その姿を見て、4年前を思い出した。

4年前のFIFAワールドカップドイツ大会のアジア地区予選突破の時は、タイ・バンコクにいて、サッカー取材をしていました。これが、津波の復興支援であり、このブログを始める直接のきっかけとなったのです。

阪神大震災の経験があり、その経験を活かして津波の復興支援をしているのに、前年にタイの政府機関のビデオを作成して縁があったのに、なぜ、津波から半年もたった6月から始めたのか。
正直、最も酷い被害に遭った地域ではないけど、被災地での暮らしというのは、再び味わいたいものではないからです。
確かに、助けてくれたお返しに、今度、何かあったときは、助けてあげたいという気持ちはありました。しかし、それ以上に、被災地での暮らしを再び味わいたくないという気持ちが強かった。

このもやもやした感じを、吹き飛ばし、津波の被災地に足を向けさせたのは、日本と北朝鮮とのサッカーの試合がタイ・バンコクで、しかもその試合でFIFAワールドカップの予選を通過できるという、ちょっとしたお祭りのようなものがあったからでした。

友人のフリーのスポーツライターが、無観客試合の場合はどのようにサッカーサポーターが応援をするのかという取材をするというので、面白そうなので、それにビデオカメラを持って同行したというものでした。
フリーのスポーツライターとの同行ですから、どこの媒体との契約がはっきりと決まらないうちに現地入りをするという無茶苦茶なものでした。
友人のフリーのスポーツライターは夕刊紙の記事の出稿が決まり、しばらくしてわたしの方もテレビ局との話がありましたが、ちゃんとした映像が撮れてなんぼという状態でした。

試合の数日前からスパチャラサイ国立競技場のすぐ近くのインターネットが使えるゲストハウスに宿をとり、競技場の周りを歩いて、どのように日本サポーターが応援をするのかのシミュレーションをした。
タイスポーツ省の庁舎を兼ねる競技場の裏(本当は正門)あたりには、ここがタイのスポーツの中心地であるというように、大小のスポーツ用品店が軒を連ねている。
店の前では、せっせとユニフォームの製作をしている。日本代表サポーター集団の一部はこの街で自分たちのユニフォームを作っているそうだ。バンコクは、アジア地区予選でアジアの国を転戦する代表選手を追いかけるのにも便利な、アジアの中継地点だからこそ選ばれたのだろう。

試合直前は、多くの日本のテレビ局のクルーが来ていたが、試合開始が近づくと、クルーの数が減ってきた。
正式な手続きを取った報道陣には、プレスパスというものが発行されるが。プレスパスが発行されるとその試合の取材をするために会場内に入らなくてはならないからだ。
こうなると、フリーの出番である。

競技場の方が落ち着いてきたので、4キロほど離れたカオサン通りの日本料理店に向かう。
ここでは、私設パブリックビューイングが行われ。タイに来ているバックパッカーの日本人たちが集まるという。
ここで、キックオフの所だけを撮影して、再び競技場に戻るという作戦だ。

なぜそうしたのかというと、当時の日本A代表チームは、前半に得点を入れることが稀だったからだ。だから先制点は、前半にないと踏んだからだ。そして、日没直後の前半終了後に、再び日本料理店に戻る作戦だ。

試合開始の撮影をして、試合当日は交通規制が行われるとの情報を得ていたので、バイクタクシーをチャーターして競技場に向かう。
放送に耐えるビデオカメラもコンパクトで軽くなったからできる芸当である。

渋滞の中をバイクタクシーは車の間をすりぬけてゆく。ライダーは、商売熱心なのか、バンコクに女の子がいるかとか聞いてくる。

競技場の敷地内に入る。タイではちょっとした健康ブームで夕方にスポーツをする人が多い。そのため、その他のスポーツ施設もある競技場の敷地内には入りやすい。
バイクから降り。カメラをもって、12番ゲートへ向かう。
なぜ12番ゲートかというと、サッカーサポーターは12番目のチームメンバーという自負を持っている。だからこそ、12番ゲートに集まるという習性を持っている。

12番ゲートの前には太鼓を持って応援する姿があった。
日本料理店のテレビで、その太鼓の音は確認していたが、本当に場外で応援していたのだ。
ビデオカメラのマイクを望遠マイクに切り替え、携帯電話を何台も持ったリーダー格のサポーターの姿を追った。これが、無観客試合なのに、試合内容とリンクした応援の謎を解くスクープ映像となった。

テレビ局に売れる映像が撮れた。
しかし、日本がワールドカップの出場を決めないと、その映像の価値がなくなってしまう。
再び、バイクタクシーに乗り、カオサン通りの日本料理店に向かう。
着いたら、後半戦が始まっていた。
まだ、点が入っていないようだ。

その後、大黒、柳沢と点を入れて、日本代表はワールドカップの出場を決めた。
これで、映像が売れる。友人の記事も売れる。

そんなことで、すでに復旧が進んでいるのに、観光客が戻らないという津波被災地のプーケットに足を運ぶことにした。

プーケットを選んだ理由は、友人のフリーライターが観光客の少ない観光地に行きたいという希望があったことが大きいのだが。
阪神大震災から10年で神戸の観光者数が震災前並みになったということもあり。災害の規模が小さく、復旧が早かったところでも、観光客が戻らないという風評被害があり。そのことが気になっていたからだ。
また、いったん被災地になると、人や物や金の流れが変わってしまう。
一時的な復興特需はあるものの、それが終わり落ち着いてきた頃に、弱い所や無理したところのほころびが出てきて、いろいろな事が起きる。
そのことは、あまり報じられない。
とはいえ、そのことを自分の経験だけでいくら言っても説得力はない。だから、現地を見てみないと話にはならないと思いプーケットへ向かった。

同じ町の中で日本代表チームがワールドカップ出場の切符をつかんだ。その勢いが、どこか避けていた津波被災地に足を向かわせる勇気を与えてくれた。

あれから4年経ち。
バンコクの空港も新空港となり。タイの政権も変わった。
日本代表チームもほとんどのメンバーが入れ替わった。
カオサンの日本料理店は、シーロムにも出店した後、つい最近カオサンの店も移転して心機一転した。
津波の被災地も行くたびに風景が変わって行く。

ワールドカップ出場を決めて、4年前のの原点と変化を感じた。

[CANPAN blog STILL ALIVE より]

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