ダーウィンの空爆とタイの日本軍の跡 [2009年12月08日(Tue)]

タイから帰国しました。

タイ南部のカオラックの常宿は、スイス人とタイ人の夫婦が経営しています。
スイスは、ドイツ語、フランス語、イタリア語が公用語なので、スイス人はいろんな言葉が話せるため、ヨーロピアンを中心にいろんな国の人が来ます。
そこでは、英語、タイ語、ドイツ語、フランス語がいりまじった不思議空間で、そこに私が入って日本語が付け加わる。
そこでは、それぞれの国の事で盛り上がる。
車の通行区分、物価、タイまでの飛行時間、気候などが基本です。
そして、この時期は、サッカーのワールドカップはどの組になったかということも基本常識となってきます。
ここでは、日本の文化の代表選手として、自分なりに説明しないといけない。

この宿の一階のバースペースでは、いつも衛星放送でスポーツやCNNなどのニュースが流されています。
その日は、オバマさんが、アフガニスタンへの派兵を強化するということで、たまたま戦争の話となった。
日本がカンチャナブリのあたりでかなり、大変な工事をしたとかいう話になったとき、たまたまオーストラリアのダーウィンからのお客さんが、第二次世界大戦のときのダーウィンの空爆の話になった。
もう60年以上たったいまでも、かなり根に持たれているようで「ダーウィンが空爆されたことは、お前の国の学校では教えているのか?」と聞かれた。
ちょっと恥ずかしい気分になった。

さて、タイの南部にも、1941年12月のちょうどこの頃に日本軍が侵攻作戦を行っている。
特にプラチャップキリカンでは、双方に多大な犠牲者が出たという。
このことは、多くのタイ人は知らないことだが、その地域ではいままだに根に持たれているそうだ。
この攻防は数日で終結し、その後、日本軍はタイの国土の通過を許可された。

そのため、タイ南部の津波の被災地にも、日本軍の跡が点在している。

パンガー県のタクアパーの町中にある船着き場(写真の一番奥に写っている緑色の建物)は、町の人によると戦争中に日本軍が建てたものだという。そこは改修され、いまも使っているそうな。

歴史の授業は、過去から順番に教えるので、どうしても現代に近い最後の方は駆け足で教える。しかも、教科書に載せられる情報はごく限られたものになる。

人々は今を生きているわけだから、自分たちの今の文化と最近の過去の歴史を知っておく必要がある。そして、ある程度は説明できる必要がある。
特に海外に行った時はそのことが大切だと今回改めて感じた。

[CANPAN blog STILL ALIVE より]