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悲惨なことへの笑いと報道 [2010年07月07日(Wed)]

悲惨なことへの笑いと報道 [2010年07月07日(Wed)]

ここ数年バラエティ番組を見なくなった。
その理由は、笑えないからです。

笑えない理由を書いたコラムがあったので紹介します。

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明
テレビ番組もリツイートされ炎上すると覚えておくべし

その中に下記のようなことが書かれている。

誰かを「笑いもの」にすることで生じる笑い。生身の人間があわてていたり、おびえていたり、悲鳴をあげている様子を観察して、それを笑いに転化する手続きを「芸」と呼ぶことでまわっているちっぽけな世界。
不愉快な話だ。
誰かをひどい目に遭わせること。おびえさせること。あわてさせ、悲鳴をあげさせ、挙動不審に陥らせること――こういう状況を招来する力を、彼らは「笑いの能力」であるというふうに認定している。
こういう状況を実現する力を、彼らは笑いの能力と認定している。
つまり、暴力の周辺に生じる奇妙な人間の姿を彼らは笑っているわけだ。

このようなことは、笑いに転化していなとはいえ、ワイドショー化した報道の世界や、映画などのエンターテイメントの世界にも当てはまるように思います。

5年前に撮影した、津波被災地の風評被害を捉えた「STILL ALIVE」の中で、津波被災者が「悲惨な人間を笑うというのは、いじくるというのは、今の日本のメディアにありますよね。」と語っています。

映画の場合、フィクションであり演出であり、契約により演じるから、許されるところもあるかと思いますが。
現実に起きた事に関しては、回復というか、そういう事はあまりなされません。
通訳としてメディアと同行した白石昇氏の「津波―アンダマンの涙」には、読者の期待に応えようと、より悲惨な出来事を求めていくうちに、人々の関心が薄れ記事になりにくくなり、苦悩していく大規模災害の報道の現場の様子が書かれています。

人間が持っている欲望の一つなのかもしれませんが、その欲望をかなえつつも、どのようにしてバランスを取っていくのかが、放送や掲載する立場の仕事だと思います。

さきほどの「STILL ALIVE」のインタビューのつづきで「いじくるなら、いじくるんでいいじゃないですか。それだったら、ちゃんとケツ持ってください。」と話しています。

小田嶋さんのコラムの中で、
一番不思議なのは、この話をオンエア可能とした放送局の人間の判断だ。
こんなものがOKだと、本当にテレビの中の人はそう考えたのだろうか?
だって、時効ではあっても、粗暴なふるまいであることに違いはない。それを武勇伝みたいに話して、おまけにそのムゴい話で笑いを取ろうとしている。こんなものをゴールデンで流して無事で済むと、彼らは本当にそう思っていたのだろうか。
と指摘しています。

伝える者にとって、なにがケツを持つことなのでしょうか。

笑いと報道とは違うと言う人が多いと思いますが。

小田嶋さんの解析する「バウバウ」についても、報道に当てはめても通じる面があるように思います。

6. 意味は、強要を超えて「同調圧力」に昇格している。「はい、私乗り遅れてませんから」という意味を込めて、人々は必死でバウリングを励行している。

7. ついでに申し上げるなら「バウバウ」は、空気に乗れていない人間をあぶり出す「踏み絵」の役割りを担うようにさえなっているかに見える。

8. ここにおいて、笑いは解放の契機であることをやめて、明らかな強制となってわれわれの上にのしかかってきている。なんという窮屈さ。

ネットのニュースも含めて報道が「同調圧力」や「空気に乗れていない人間をあぶり出す「踏み絵」の役割り」になっていて、「同調圧力」が放送局や系列を超えて蔓延し。「報道は解放の契機であることをやめて、明らかな強制となってわれわれの上にのしかかってきている。」ってな事になっているように思えてならない。

お笑いは、笑いごとで済むかもしれない(ここにチェックが甘くなる要素があるとも思いますが)、現実は笑いごとではないように思います。

P.S. You Tubeで、太地のクジラ漁を撮ったことで話題になった「サ・コーヴ」を上映する映画館の館主の実家に押し寄せ、母親に向かって大音量で恫喝した右翼の映像が話題になっていますが。(参考映像http://www.ustream.tv/recorded/8048373)
W杯でPKを外した駒野選手の母親に押しかけて結果として謝罪させてしまった事をワイドショーで報じたことがありましたが。
この二つって、とても構図が似ていると思います。

[CANPAN blog STILL ALIVE より]

 

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