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毎年、複雑な気分になる。

毎年、複雑な気分になる。

毎年、複雑な気分になる。
去年のこの日は釜石に居たので少し紛れたけど。
どんな大規模災害でもありがちなのは、災害によって影響を受けた人はかなりの人数になるのに犠牲者の数字が一人歩きする。
阪神淡路大震災では実際に生活に影響を受けた人は100万人も200万人もいるはずで、行政区域で区別できるわけでもない、
犠牲者やそのご遺族には失礼な言い方ですが、犠牲者を悼む慰霊祭で慰霊されるのはごく一部でしかない。
東日本大地震の直後、北野武が一つの出来事で1万人死んだのではなく、1人か死ぬ事が1万件同時に起きたというような事を言っていたが。これは死者だけではないと私は考えている。
震災関連死として認められる人もいますが、カウントされていないこの22年に震災に影響を受けながら亡くなった人はどれだえいるのかと考えると。
犠牲者と認められている人の数のろうそくを立てることて、亡くなった命の多さを体感できる一方で、その何倍、10倍、20倍いるだろう、無念を抱えている人たちはどうなのだろうか?カウントされていない無念を抱えたままに亡くなった方に対してはどうなのかという気持ちになる。そんな無数の出来事を一つの祭事でまとめる事が出来るのだろうかという疑問もある。
いろんな考え方があるのでなんとも言えないが、5時46分に消すのも違和感がある。5時46分52秒に震災が始まったわけで。その時刻に拘るなら52秒にもこだわって欲しい。地震は発生した場所から伝わって行くわけですが。神戸市中心部あたりでは5時46分ではなく5時47分に時計が止まった。即死した人も5時46分に亡くなった人は少数ではないだろうか?瓦礫の下敷きになったまましばらくして亡くなった方もいるでしょうし、地震では助かったが貴重品を取りに行って火災に巻き込まれて亡くなったかたもいると思います。そんな色んな死に方をしているにもかかわらず、5時46分までしか点灯しないというのはどうなのだろうかという疑問がわく。それぞれの考えがあるので、なんとも言い難いが、もやもやする。
もちろん、犠牲者を悼むことはとても大切なこと。その一方で、大切であり正義であるがゆえ、その事に対する疑問を口にしにくい状況が出来ている事も、複雑な気分をさらに複雑にする。

7年前、さをり神戸と「1.17」という展示を始めた最初のとき、一つの映像を作った。
それは、黒バックに白抜きの数字が増えるだけの映像です。
震災が起きたとされる時刻から増える時間、犠牲者数と言われている数字の前後で増え続ける数字。
映像で見れるのはごく一部でしかなく。一定時間で映像は最初に戻りリピートする仕組み。
災害後、電気が通じ、情報が入って来るたびに増えて行く犠牲者の数の再現であるとともに、公に犠牲者数とされている数字を超えてカウントすることで、今なお災害復興住宅などで孤独死して行く人、災害関連死と認められていない人などを含めていこうと表現してみた。

でも、未だに腑に落ちない
毎年、複雑な気分。

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