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タイと日本との津波からの復興の違い(5)  住民に寄り添った支援(中編)

タイと日本との津波からの復興の違い(5)  住民に寄り添った支援(中編)

この夏のスタディツアーのPRのため最近ラジオへの出演が多いのですが。そこで興味深く聞かれるのは、タイと日本との復興の違いについてです。そこで、何回か連載でその復興の違いについて触れてみようと思います。今回は「住民に寄り添った支援(中編)」です。

前回は、医療チームの全戸訪問、宗教に対応した医療チーム、セットされた救援物資の話をしましたが。今回は「心のケア」についてです。

西洋近代医学以外に伝統や宗教によるローカルなケアも選択できた

タイの津波被災地は、紛争地ではなかったり、クリスマス休暇の外国人が犠牲になったと各国で大きく報道されたこともあり、タイの国内外からいろんなNGOや慈善団体または個人が支援にやってきました。それによって、いろんなケアを選択できた面があります。
約3000人の被災者が集まったバンムアン町の役場の敷地の避難所には、政府系のほかに、いろんなNGOや慈善団体があつまりました。それによって、西洋近代医学以外の伝統や宗教などに基づいたローカルな支援も選択できました。

さをり織りプロジェクト

バンムアンキャンプ内では様々な心のケアの活動が行われましたが、その一つがタイ仏教寺院関連の慈善団体マーヤーゴータミ財団が実施するさをり織りです。津波から1か月後の2005年2月3日よりバンムアンの避難所で活動を開始し、一時は南北150キロのあいだに7拠点で展開し、現在は2007年にバンムアンの町役場の敷地内にあるさをりトレーニングセンターを中心に活動をしています。この建物は日本の外務省の人間の安全保障草の根無償協力の資金で建設されました。

さをり織りは、約50年前に大阪の主婦、城みさをさんが考案した現代手織りです。小型にした機織り機を使い、失敗も絵柄と捉えるなどで自由に織るのが特徴です。ただ単に自由に織れと言われてもなかなか自由になれないのですが。より自由になるために、機械と人間の違いを意識し人間らしいさを大切にしたり、いろんな事にチャレンジするように促したり、グループで学習するしくみをもっていたりなど、さまざまな能力を向上しつつ自由になる仕組みがあります。単なる手芸ではなくエンパワメントする仕組みがさをり織りの特徴です。

 

 さをりトレーニングセンターの縫製室 撮影 志葉玲

バンムアンの避難所にさをり織りを導入したのは、避難生活者たちの「何か仕事をしたい」という声がきっかけだったそうです。

なぜさをり織りがタイにあったかというと、タイ北部の障害者のためのJICAのさをりタイプロジェクトが実施されていたからです。その活動を見て、さをり織りには、瞑想や呼吸法がなかなかできない人でも集中して雑念を払うことができ青少年の育成事業にも使えると大津波の前年にお寺に導入したものでした。雑念を払うことは悲惨な経験をした被災者の心のケアにつながった。

寄付文化による潤沢な活動資金

運営資金は多額の寄付金でした。タイは寄付文化があります。いろんな事に施したり良い事をするなどで徳を積むというのが良しとされています。大津波直後、被災者に何かしたいという事で、知恵者のいるお寺に寄付金が集まったそうです。その寄付金を使い、さをり織りとそれに関わる仕事をすれば、最低賃金分ではありますが給金が支払われました。そのおかげで多くの人が関わる事ができました。
お寺での説法会などで出来上がった作品を販売することで活動資金を得ました。

買う事で本当の幸せを得られる

販売することは、製作者の幸福をもたらしました。
ある被災者は言いました。「わたしたちをかわいそうだと思ってお金をくれる人がいる。それより私の作った作品を見てほしい。もし、そのなかで気に入ったものがあったら手に取って買ってほしい。気に入って買ってもらうことで、本当の幸せを感じることができる。」

さをり織りは阪神淡路大震災でも心の癒しに、そして東北にも

1995年の阪神淡路大震災をきっかけに、さをり織りは被災者の心の癒しの活動を始め、翌年に神戸に拠点をつくりました。無心になって織ったあと、作品を見せ合ったり、お茶を飲みながらお話をすると。織っている時は辛い体験を忘れることが出来たり。仲間と何気ないお話をする楽しみなどで心が癒されます。また作品をお友達から評価されることも自信をつけることにつながります。
2011年の東日本大震災においても、阪神淡路大震災、スマトラ島沖地震の経験を生かした活動を行いました。ツナミクラフトが言い出しっぺの三陸さをり織りプロジェクトはその一つです。ただ、タイのような潤沢な資金がなく、機材や道具の材料の寄付、指導者の派遣は行いましたが、サポートを受けながら住民たちが自主運営する形で活動が広がっています。

政府の政策とフェアトレード

たくさんのNGOや慈善団体の支援もあり、避難所や仮設住宅ではいろんな手仕事のプロジェクトが出来ました。タイでは、日本の大分県の一村一品運動をヒントにした地域促進政策OTOP(ワン・タンポン・ワン・プロダクト)の運動が盛んです。政府はプロジェクトの作り方、企画から販売までのプロセス、技術指導、どのようなものが世界で売れているかの情報提供などを支援してくれます。その流れの中で手仕事のプロジェクトへの関心が高かったのです。
その手仕事の活動を支援しようと、イギリス人のカレン・ブラックマンさんにより「ツナミクラフトセンター」が作られました。センターの運営は各プロジェクトの代表者らによって構成される運営組織により被災者主体で行われました。そのセンターを通じてフェアトレード流通に流れ欧米へと輸出されました。当方は日本への輸出を行いました。フェアトレードでの取引を通じ、流通経由で消費者ニーズが届けられたり、商品として成立するための品質向上が行われました。
「ツナミクラフトセンター」は、2年少しで閉鎖しましたが、ツナミクラフトは「ツナミクラフトセンター」の精神とネットワークを引き継いで活動しています。

 ツナミクラフトセンター

 24時間お坊さんの説法ラジオ局

お坊さんが行った興味深い心のケアがほかにもあります。それはラジオ局です。
日本でも災害FMなど、被災地の地域の情報を共有するためにラジオが活用されましたが、お坊さんの放送局は説法が24時間流れるだけです。
この放送局は避難所の心のケアのためにバンコクからやってきたお坊さんが始めたものです。女性は知恵者であるお坊さんに悩みを相談に来ることが多いのですが、男性は一人で悩んでいる人が多い傾向があるそうです。ラジオならお坊さんに会いに行かなくても説法が聞けます。夜中に一人でラジオの説法を聞いていて、その中から自分の問題を解決するヒントを見つけるのだそうです。ラジオから流れた説法によって問題が解決したとお礼にとお坊さんに会いに来る男性がいるそうです。なお、現在はカルト問題により宗教団体の放送に規制がかかったり、法律の厳格運用のため放送中止しています。

 ラジオ局を開設したお坊さん 撮影 志葉玲

他にもいろんなラジオ局があります。普段は天気予報とさわやかな音楽を流しているが、災害時には災害情報を流すラジオ局。ミャンマー(ビルマ)からの出稼ぎ労働者がたくさん住んでいるのでビルマ語のラジオ局もあるそうです。
日本の災害FMは自治体単位での設置が多いのですが、また違った感じですね。

様々な子供たちへの支援

大津波は大規模な災害だったため家族を失った子供たちがたくさんいました。1100人もの孤児がいたとのデータもあります。そのため、いろんな子供たちへの支援が行われました。そのうちの2つを紹介します。

バンコクのスラムの経験を被災地へ

まず、ドゥアンブラティープ財団の取り組みです。津波発生後から1週間後から現地に入り子供たちのケアを行いました。ドゥアンブラティープ財団はバンコクのスラム街で貧困者家庭を対象とした一日1バーツ学校を16歳で始めたプラティープ・ウンソンタム・秦さんが、アジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞した時の賞金を利用して設立した財団です。それ以来、スラムの教育、環境改善、麻薬などの問題を抱えた子供たちの生き直しなど、子供を中心に地域の問題を解決する活動をしてきました。しかし、災害支援の経験はありませんでした。
津波から一週間後、財団の人形劇チームのロッジャナー・ブレスリトーンさんらが被災地に降り立ちます。津波の跡は、まるで地獄絵図だったそうです。そこで、自分たちの得意な子供に寄り添った活動を始めました。時には人形劇で笑わせたり絵をかいたりろうけつ染めで集中する時間をつくったりしました。津波から2年を目前とした2006年には23人の子供たちと共同生活をするバーンターンナムチャイを津波の来ない場所に建設。活動を続けているうちに、出稼ぎによって両親と離れた子供や、子供を育てることが困難な若すぎるカップルから生まれた子供など、地域に元からあった問題にも取り組むようになり、共同生活をする子供は100人まで増えました。
また、2011年には、平坦で津波があると逃げる場所がないナムケム村に避難所兼幼稚園が完成。大人が働きに出ている時に津波が来ても、子供たちはそのまま避難できる仕組みです。幼稚園児はバンコクのスラムの教育でも実績があるモンテッソーリ教育と仏教教育をミックスした個性を伸ばす教育を実施しています。0歳から未就学児を預かっているので、幼稚園というより、保育園もミックスしたこども園と言った方が良いかもしれません。
バーンターンナムチャイは、2011年にドゥアンブラティープ財団から独立し、バーンターンナムチャイ財団となって活動しています。

家族で移り住んで子供たちを支援

次に、バンサンファンです。
こちらは、タイ南部出身のキリスト教徒の家族が始めたプロジェクトです。
津波の情報を知りサムとガイの家族は、何かできることがあるのではと思い、最大の避難所のバンムアンキャンプに行き、キリスト教の精神にのっとって子供の世話を始めました。サムとガイとの家族で300人の子供の面倒をみたそうです。
避難所や仮設住宅が解消する中、彼らの活動を知ったヨーロッパ人の医師が資金を提供し、児童養護施設バンサンファンが建設され15人の孤児たちとの共同生活が始まりました。サムとガイは、子供たちに正しい食事をという事で、敷地内にオーガニックで育てる農園を作りました。しかし、津波から5年目に医師からの資金協力が終わり経営難になりました。サムとガイの服装は着古したボロボロのものでしたが、子供たちだけはちゃんとした服と食事を提供していました。子供たちにちゃんとした衣食住を提供するため、共同生活をする子供たちの新たな募集をやめたこともあったそうです。
そこで、近隣のNGOらが知恵を出し合い、アンダマンディスカバリーズ社の協力を得て、付加価値の高い地鶏をオーガニックで繁殖させる事業を始めました。オーガニックの地鶏の卵や鶏肉は高額で取引され施設の運営が好転しました。施設を出て大学に進学した子供に卵を売って生活費に充ててもらおうと定期的に送ったのですが。子供たちから施設への寄付金が届いているのだそうです。

このように、タイの津波被災地はいろんな人が被災者に寄り添っています。そして、現場で活動をしている人に資金や物資が届きます。なので民間ベースで支援活動が回ります。
日本のNPOは国などの補助金、助成金で活動をしている所が多くありますが。そのあたりが違いますね。

次の、住民に寄り添った支援(後編)では、コミュニティ開発について書きます。

ここに書かれていることを、実際に現地に行ってなぜそうなったかを体験してもらいたいと思います。スタディツアーの申し込みはこちら。20日までになるべくお申し込みください。まずはお問い合わせを。

 

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