×

いまさらですが「君の名は。」

いまさらですが「君の名は。」

2018年1月3日に2016年の大ヒットアニメ映画「君の名は。」がテレビで放送されました。
東京と飛騨の二人の高校生の男女が入れ替わり、一方の舞台の飛騨に彗星が落ちる大災害が起きるという話です。このストーリーは東日本大震災が影響したのではないかと言われている作品でもあります。
RADWIMPSの音楽に乗せて美しい風景の映像が織りなす映像、スピード感のある展開で一気に見れてしまいます。
この作品で感じた事を、いまさらですが書いてみます。

以下、ネタバレ注意。

この映画のキモは、5年後の話だと思います。

舞台は東京。
あれだけの大災害は、遠い所で起きた事として忘れ去られ、日常が繰り広げられています。
大型街頭ディスプレイには「あの災害から〇年」という話題は提供されていますが。誰も立ち止まって見る人はいません。
多くの人が、電車に乗り、カフェでお茶をしている中に、大災害から生き延びた若者たちがそっと紛れ込んで生活しています。
災害が起きるまでは、高校卒業後は、東京に進学か就職、もしくは地元で働くと考えいたと思わせるセリフが映画の前半にあったのですが。その会話をしていた全員が東京の片隅で暮らしています。
おそらく、あの災害のあと、帰宅困難区域となったり、町の復興が思わしくなく、若者たちは生きていくために東京に出て来たのだろう。

一方、東京の男性の方は、就職活動に苦戦をします。
大きな災害の事が気になって仕方がないので、面接試験で思わず災害によって失われた風景の事について語ってしまいます。原風景というのは人々には大切ですが、企業人の立場からするとそんなに重要ではない。

このあたりの話に、私も似たような経験をしているのでグッと来た。

今は、兵庫県西宮市に活動拠点を置いているが、ツナミクラフトの活動を開始した頃は東京都新宿区の四谷三丁目の近くが拠点でした。
主人公の男の子がアルバイトをしているイタリアンレストランのモデルになった店もよく行ったし、よく出てくる歩道橋も渡った事がある。そして、ラストシーンの階段も良く行った。
これらが出てくるだけで懐かしい感覚が湧いてくる。

この四谷に住もうと思ったのは、阪神淡路大震災の半年前に飛騨で出会った人が原因だった。
この人は、四谷三丁目にある出版社に勤めていた。飛騨で教育とコンピュータの活用の研究会があって、そこで出会った。
この年の年末、その出版社のある雑誌の忘年会兼打ち上げに参加させてもらい新宿で朝まで飲んだ。
年があけて、阪神淡路大震災が起きた。当時は西宮市の団地で暮らしていた。
早朝、突然の大きな揺れが起きた。あまりの揺れで地震とは想像できず、大阪空港から飛び立った飛行機が落ちたのかと思っていた。電気、水道、ガスが止まったのですが。なぜか電話回線だけが生きていて受話器からツーという音が聞こえた。
とてつもない大きな地震だと気が付き大阪支社もたぶんダメかと思い、ノートパソコンについていたFAXモデムを使って停電の中、今日は休むという事と伝達事項を東京本社にパソコンから直接FAXで送った。
電気が復旧してしばらくした頃、一本の電話がかかったきた。それは、飛騨で出会った人からでした。電話回線がパンクして繋がりにくくいるのですが、公衆電話が優先される設定になっていた事を知っていた彼が公衆電話から電話をかけてきてくれた。遠くの人が着に掛けてくれていると、とても助けられた。
おそらく、時間的に四谷三丁目の会社の近くの公衆電話だったと思われます。

当時勤めていた会社は。広告代理店でした。
広告主も阪神淡路大震災に被災していて広告出稿を出しにくい状態があった。
震災後、会社に行くために乗った電車は、中づり広告が全て無くなっていた。
平和でないと広告業は厳しいと感じた。

取引先が被災し、こちらでの仕事が少なく売り上げが伸び悩んでいた頃。飛騨で出会った人が新しい雑誌を立ち上げるというので、その広告の担当しないかと誘われた。
そして、私の東京暮らしが始まった。

東京は、阪神淡路大震災の後にオウム事件という大事件があったせいもあり。東京の人にとっては神戸という離れた土地の大参事は過去のものになっていた。
西宮で暮らしていた時の仲間のうち何人かも、東京に仕事を求めて、いつしか東京の片隅で暮らしだした。震災の時、二階で寝ていたら、一階にいたと言っていたバンド仲間も東京に出て来た。

東京は家賃が高いので、四谷三丁目付近はいいなあと思いつつもなかなか手が出なかった。
江東区、板橋区、国分寺市などに住み8年目にようやく四谷で暮らせることになった。

「君の名は。」の5年後のパートで、ヒロインが入れ替わりの時の微かな記憶を頼りにか、四谷の近辺のマンションに暮らしていると思われるシーンが出てくる。
作品中では何も語られてないけど、どこかのタイミングで東京に出てきていたのだけど、最初から四谷の近くに住んでいたとは思えない。もう少し家賃の安い所に住んでいて、就職して収入が安定した頃に四谷に住んだと思われます。

私は、2004年にスマトラ島沖地震が起きて、その後にツナミクラフトの活動を開始するわけですが。
販売しているものは、被災者の作った作品だと言うと、すっと逃げていくお客さんが多かった。
自分の体験とダブっているので、ついつい熱くなってしまい。それが嫌われたのかもしれません。
これって、主人公が就職活動の面接で熱く語って面接試験に苦戦するシーンとダブる。

このように「君の名は。」の5年後のパートは、自分の経験と重なってぐっときてしまう。
多くの大参事を題材にした映画は、災難から主人公らが逃れる事が出来て終わりなのですが。「君の名は。」は、その後の事を、上手に行間を開けながら描写しているのが素晴らしいと思う。新海誠監督よく描いてくれてありがとうという感じです。

「君の名は。」を見て感動した人は、ぜひ、ひっそりと都会に被災者が紛れて暮らしているという事を意識してみてほしいです。

余談その1
飛騨ふるさと牛乳のマークが「君の名は。」の舞台になっている「糸守湖(彗星落下後)」に似ています。

余談その2
お婆さんが話す組紐の話ですが。
被災地をつなぐさをり織りのコンセプトとどこか通じるものがあります。組紐と織り物は違うものですが糸が織りなす関係は共通するものがあるかと。

余談その3
西宮市は、日本酒を作るのに適した地下水「宮水」が出ます。「君の名は。」のヒロインの姓は「宮水」で、宮水家のしきたりで口噛み酒を作るのですが。ともに、お酒の原料が宮水。

※次回作『天気の子』については 『天気の子』見て来た

Share this content: