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安政南海地震の津波の時刻に現場に居てみた

安政南海地震の津波の時刻に現場に居てみた

2004年インド洋大津波の話と「稲むらの火」のモデルとなった出来事を、実際に発生した時刻に、その場所でにいて感じたことを書きます。

「稲むらの火」の話のモデルの一つとなった安政南海地震は新暦でいう1854年12月24日午後4時20分頃に発生したそうです。震源は約400kmに渡る広範囲で、広では前日に起きた安政東海地震より大きく感じられたそうです。地震は広範囲に及び、新宮の推定される震度が7で、広は震度5~6。大坂(大阪)震度6、西宮震度5~6とかなり広範囲に揺れたようです。

稲むらの火の話は、明治三陸地震(明治29年1896年6月15日)に影響を受けた小泉八雲(ラフかディオハーン)によって作られた物語で、地震の揺れ方や津波の襲来回数など、史実と異なる部分も多いという指摘があります。

日没は午後4時50分ぐらい。サムネールの写真は12月24日の午後4時38分に撮影。津波第一波が到達するかどうかの時間。

紀州では津波第三波が最大の津波で、それまでに逃げたおかげで生存率97%となった。

前日に東海南海地震があったので、濱口五稜はすでに津波を想定していたそうですが。稻むらに火を放ったのは津波第一波の後だったそうです。

第二波の時間には日没が過ぎておりかなり暗かったと思われます。
稻邑に放った日や松明は、人たちを逃すだけでなく、地震と津波で建物が崩壊し、津波第一波で浸水した村を照らして、瓦礫に挟まれた人の救助活動にも役立ったそうです。

紀州では津波第三波が最大の津波で、それまでに逃げたおかげで生存率97%となったそうです。

広村の津波の遡上高は海抜8mとか5mという複数の調査記録があります。
5mの津波は恐ろしい。2004年のインド洋大津波においてタイ王国で一番犠牲者数の多かった町のパンガー県のナムケム村が地盤の平均が2.3mに対し津波の高さが海抜約5mで地面から2.6mに津波の痕跡がありました。ナムケム村で犠牲者が多かった理由の一つはコンクリート製の一階建ての建物が多い上に漁船が津波で市場の中を流れたことで漁船と建物の間に人が挟まったことです。

さて、広の話に戻るとして、12月末は南国紀州だと言っても寒く、当時の気象データはわかりませんが、12月の広川町の平均最低気温 4.1℃で、気温が4度以下になると地表温度が氷点下となり霜が降りる。火は津波に遭った人々の身体と心を温めたとも思われます。

また、リーダーシップも大切な要素だったと思われます。
当時、濱口梧陵は35歳で今でこそ青年会の年頃とは言え、長老とかではない中堅の言った事を、村人たちが受け入れたというのは、かなりのリーダーとしての信用と信頼があったと感じられます。
2004年のインド洋大津波においてタイ王国のパンガー県のスリン島では、文字を持たない海洋少数民族モーケンの村長が250年前から歌のように語り継がれていた津波の伝承から、海面の様子から津波を察知して村民に伝え、裏山に逃げて6か月の赤ちゃん以外全員が助かったという事がありました。
こちらは、現地時間の午前10時前後ということで昼だったことがありますが。
「津波てんでんこ」のように、地震が起きたらとにかく高台に逃げるなど、あらかじめ決められた共通の取り決めにより自動的にトリガーが引かれる場合でない場合は、知恵者のリーダーシップというか、普段からの人々との信頼関係が、リーダーの緊急時の意思決定の効果を高めると感じました。

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