×

祖父とスカルノ大統領 [2006年02月07日(Tue)]

祖父とスカルノ大統領 [2006年02月07日(Tue)]

1月25日に生まれたわが息子の頭の形が、私の祖父と似ているということで、祖父の写真を探したのだが。手元にあった祖父の写真は、インドネシアの初代大統領のスカルノさんと一緒に撮ったものしかなかった。
スカルノ大統領は、1965年の9.30事件で事実上失脚し、その後、順次スハルト政権に移ってゆき、しばらくして亡くなるわけだが。その失脚後から亡くなるまでには、謎が多いといわれている。
祖父は、1965年の9.30事件の時に、スカルノ大統領との付き合いがあり、大統領から、逃げろといわれ、着の身着のままの状態で、ジャカルタを後にし、バンコクそして香港を経由して日本に戻ったと、幼いころから何度も聞いている。そのころ、あまり疑問に思わず、単純にインドネシアに紡績工場を作りに行っていたという認識をしていたのだが、インドネシアではスカルノ大統領が失脚しスハルト政権になってから、外資を導入し工業化を図っている事からすると、祖父が工業化のためにインドネシアに行っていた時期は、それより少し早いことになる。
そこで、なぜ、あの時代に祖父がスカルノ大統領と会っていたのかのそ時代について改めて調べてみることにした。

とはいえ、手元にある文献は少ない。
ラオスへの出張の前に買った東南アジアを知る事典を読んでみる。

スカルノさんは、1901年生まれ。昭和天皇が1900年生まれということで、昭和生まれの人にとっては、どのぐらいの歳かというイメージがつかみやすいだろう。ちなみに、私の祖父とスカルノさんは、生まれた年は1年ずれているが、ほぼ同い年ということがあって、親密になるきっかけのひとつがそこにあったのだろう。
20世紀になったばかりのインドネシアのあたりは、オランダ領東インドで、19世紀ごろからの植民地とする過程で、圧倒的な物資などを使って文化や産業を単純化させるとともに、オランダ領としての統制のために、現地の有力者を西欧化させる教育をさせたり、倫理を押し付けたりして、管理しようとしていたようです。それが、逆に、オランダ領東インドというより、インドネシアという領域を意識させ、民族主義の生まれる土壌を作ったようです。
この発想って、今も基本的にはあまり変わっていいないかもしれないですね。国際基準を先進国側が、
スカルノさんは、ジャワ人の父とバリ人の母との間に生まれた、今でこそ国はひとつだけど、異民族間のハーフとして生まれている。そして、進学し工業大学を卒業したということでも、インドネシアという地域を管理する地域の有力者層であったことがわかる。ちょうどそのころ、民族主義の運動が盛んだったこともあり、活動に没頭し、投獄されたり流刑されたりする。
私の祖父は、名古屋の工業関係の学校に通っているころに、大正デモクラシーの影響で、電車が焼かれたことがあり。その電車から逃げたと言っていた。
当時は、帝国主義と民族主義、民主主義の間で、いろいろ揺れ動いていた時代なんでしょう。
当時の日本は、西洋的な近代国家を形成するのに成功していたため、名誉白人という待遇で、インドネシアに出入りしていたようです。とはいえ、個人商店レベルでのインドネシアに進出していたようで。企業レベルの本格的なインドネシアへの進出はしていなかったようです。
そして、太平洋戦争の時に、インドネシアの資源を目当てに、大東亜共栄圏という、反帝国主義なんだけど、帝国主義をうちあげて、インドネシアに入り込み。オランダを追い出し、軍事教育を施す。
どうも、日本は、オランダを追い出し、アジアの独自性を打ち出すイメージ作りのために流刑されていたスカルノさんを助け出し担ぎ上げた一方。スカルノさんは、日本の思惑をわかりつつも、独立のために必要だということで、日本の軍事教育などを受け入れていたようです。ここで、日本との関係が出来たのでしょう。
日本が敗戦し、1945年8月17日にインドネシアの独立宣言をするが。その後、再植民地化しようとするオランダに対し独立戦争が5年ほど続く。このとき、撤退した日本軍が使っていた武器や、日本の軍政によって行われた軍事教練が役に立ったようです。
一度は、議会制民主主義をやろうとするが、うまくいかず、民族主義、宗教、共産主義の三者の団結を呼びかけたりと、いろいろ試行錯誤しています。
でも実際は、共産主義と軍隊のバランスで政治が動いていて。オランダこそいなくなったが、いわゆる指導者層が統治するスタイルは変わらなかった。オランダの持っていたプランテーションを国有化するときに、軍人やその周辺の人に管理をさせたことで、結果として軍の力が強くなることになり、後々に軍出身のスハルトさんに政権を渡す一因を作る。
また、国際的には、インドネシアは、西側にも東側にも属さない、独自の立場を貫こうとする。アジアアフリカ会議というものを開いたりして、積極的に活動をする。このころ、大国の支援を受けることが出来るが、同時に大国の言いなりになってしまうということを警戒して、IMF(国際通貨基金)を利用しないなどの対策をするが。結果として、それが、国の財政を困難にさせてしまう。IMFなどの、いわゆる西欧諸国からの資金を得ずに、国を発展する方法として、太平洋戦争の戦勝国として、日本に対しての戦後保障を利用していたようで。成功はしなかったものの、植民地化されたとき文化や産業を単純にさせられたために発展しなかった工業化に取り組んでいた。そこに、私の祖父がインドネシアに行った背景があったのだと考えられる。
さて、工業化に取り組んでいたにもかかわらず、成功しなかった背景には、日本からの戦後保証のお金が、どうも、偉い人の懐に入ってしまい、工業化にうまく回らなかったということがあったらしい。植民地時代に、植民地を管理をするために教育を受けた地元の有力者たちは、お金の価値やそのおいしさを知っていたがために、ついつい手を出しちゃったのかもしれません。その欲望?を満足させつつも、工業化に取り組めるだけの資金としては、日本の戦後保障で支払われる金額が必要とする量に比べて多くなかったため、じぶんたちの懐を暖めるだけで終わってしまったという事なのかもしれません。まずは、自分が大事ですからね。
その後、スカルノさんは、国際的な独自路線を鮮明にしようとして、共産国である中国に近づこうとするわけですが。
それが、イギリスやアメリカからすると面白くなかったようで。イギリスの影響の大きい、マレーシアやシンガポールを基点に、インドネシア工作をしたり。アメリカは、軍に擦り寄って、スカルノさんと共産党を同時につぶそうとしたようです。このとき、イギリスのMI6やアメリカのCIAなども動いていたという説もあるようです。
てなことで、1965年9月30日に、スカルノさんが失脚し、軍の関係者であるスハルト政権になり、欧米帰りの人を使い、外資を導入して、インドネシアの産業は発展してゆくんですが。外資を導入して一番メリットがあるのは、やはり外資だけど、発展することのメリットはある。しかし、オランダの植民地という直接的な感じではないが、支援などという、現代っぽいオブラートがかぶせられただけで、資金、物資、武器、教育、文化などでいわゆる先進国が縛っていく基本的な方法は、変わっていない気がするんですよね。戦争中は日本もそうしていた(なるほど、名誉白人なわけだ)。
日本のこの10年の傾向としては、いわゆるIT系ベンチャーって、上場をひとつの目標にしているのだけど、外資に買ってもらって、創業者利益を得るって事をひとつの夢として起業するケースが多いのだけど。実際は、技術大国としての日本に対しIPという国際規格を利用し、独自の技術を育成するより、国際規格に追従するというスタイルに変わってしまい、教育と文化のイニシアティブを握られちゃいました。これも、武器こそ使っていないけど、圧倒的な資金力と物資と教育、文化を連動させて、適度に一部の人に利益をもちらしながらも、進めていくというスタイルは、19世紀ごろからの植民地政策とあまり変わらないように思える。
様々な支援活動も、成果を上げているところもたくさんあるが、貧困など多くの問題が解決しないままなのは、支援という制度を利用して、圧倒的な、資金、物資、教育、文化を、いわゆる途上国に与え続けていることも、実際は19世紀ごろからの植民地政策とあまり変わらない要素があるからだとも言える。
しかし、そういう文化を享受し、教育を受けた人の中から、問題も多く抱え、決して成功はしなかったとはいえスカルノさんのように、自分たちの独自性を求めた人も出てきているのがとても興味深い。

さて、祖父がスカルノさんに「逃げろ」と言われた理由なのですが。
軍事政権からすれば、スカルノさんと親しい人間や協力者は、都合の悪い人間であった事があるのではと思われる。政権が変われば、以前の政権は悪者として扱われ、その周りの人も、あまり良くない人になってしまうのは仕方のないことだ。
そして、祖父が、インドネシアから、タイ経由で逃げた理由は、イギリスの影響の大きかったマレーシアやシンガポール経由では、身の安全が保障できなかった事が予想される。

それから40年たった今日、日本は、戦後保障というカードを使い、スカルノ政権から、スハルト政権へのシフトに成功し、最大の投資国、援助国であり、輸出国の地位を保っている。9.30事件で暗躍したのではないかといわれるイギリスやアメリカは、思ったよりインドネシアに進出していないとも受け止められるが、インドネシアが付き合いのあるたくさんある国のうちの一つと考えると、石油やゴムや鉱物資源など必要なものが必要な量だけ抑えられたら、そんなに深く食い込む必要など、もともとなかったのかもしれない。
そして、1998年にスハルト政権が終わり、ボトムアップ型の民主主義を取り入れる試みをするなど、民主化の潮流にあるのが今のインドネシアだといわれていますが。オランダ領時代からスカルノさんの時代を経てスハルト政権と長年培ってきた縁故関係による支配は、そう簡単には崩れない。
もしかすると、日本が民主化の阻害要因の一因なのかも・・・。
こうやって見ていると、自分の国のことなのに、他の国の思惑に翻弄され、自分の国だけで解決できない事を感じざるを得ない。
そして支援活動も、時には、他の国の思惑を実行する手段として使われ、自分たちでやろうとする国を翻弄する。

[CANPAN blog STILL ALIVE より]

Share this content: