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5万8千人以上が焼け出された大火事で犠牲者がたった3人!?

5万8千人以上が焼け出された大火事で犠牲者がたった3人!?

1953年12月25日に香港の九龍で発生した「石硤尾大火」では、5万8000人の人が焼け出されたのですが、死亡したのはたった3人。

当時の香港は、日清戦争から始まって、日中戦争、そして、中国の国内での南北戦争など戦争が続いていたことから香港に難民が押し寄せて、人口が激増して、いわゆるバラック建ての建築物や水上生活をしていました。

イギリス領だった香港は、中国の南北戦争に一定の決着がついたら、難民は元の地域に戻ると考えていたようですが。人口の1/4は密集した木造のバラック建ての建物の場所に住み続けました。当然、火事が起きると一気に燃え広がり、大火事が頻発していたそうです。

その代表的なのが、1953年12月25日に香港の九龍で発生した「石硤尾大火」です。
午後9時25分ごろ、木造家屋の2階にあった靴製造の作業場で灯油ランプをともしていたところ、不注意からその火種が毛布や製靴用の接着剤に引火して最初の30軒ほどが焼け、強い北風に煽られてそこから一気にひろがり10分足らずで100軒の家が燃え、収拾がつかなくなったそうです。

当時の香港は、クリスマスでろうそくを灯すという習慣はなかったとのこと。

香港島から船で消防車を運んでも火は消えることがなく。26日の午前2時半に16.4ヘクタール(全焼は3.1ヘクタールという記録もあり)を焼き尽くして鎮火したそうです。16.4ヘクタールと数字で言われてもわかりにくいのですが、甲子園球場が約3.85ヘクタールなので、甲子園球場が4つ以上の面積が石造りも含めて全焼したということです。
甲子園球場ついでに言うと、現在の甲子園球場の収容人数が約4万8000人で、改修される前のピーク時で5万6000人とか5万8000人の観客が入ったといいますから。甲子園球場の4倍の場所に甲子園球場が最も人を詰め込んだ状態の人がバラックに住んでいたという人口密度もすごいですが。それが、一気に逃げて死者3人、負傷者51人を出し、6時間で焼失した木造家屋は2580軒で、およそ1万2000世帯、5万8203人が罹災して家を失った。

それにしても、これだけの火事で死者3人とは驚きです。当時は、しばしば火災が発生しており、住民は火事の際に逃げ延びる備えをいろいろとしていたから逃げることに成功したようです。まるで「津波てんでんこ」のようです。

当時の香港人の防災意識の共有と行動はすごい。

火災現場は、最初は木造2階建ての仮設住宅が建設され、H型をした5.6階建ての共同トイレや共同キッチンのコンクリート造りの団地を経て、現在は高層住宅になっています。火災当時の様子や復興の過程の被災者の暮らしぶりを伝えるモニュメントや看板などがところどころにあります。
焼け跡には学校や慈善団体がたくさんあり。その近くにはコンクリート造りの団地のような工場も作られ、その工場は現在はアーティストの活動の場になっています。

ツナミクラフトの活動の応援をお願いします。
下の写真はこの香港の火災現場の近くの工場跡のアートコンプレックスでのワークショップの写真です。

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